みやざき茶推進会議について

みやざき茶の歴史

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本県の茶業は、西北山間部を中心にヤマチャを利用して造られてきた釜炒り茶と、都城地方に宇治や静岡から導入された煎茶が、明治以降県下全域に広まったものです。

本県では古くから山間に自生するヤマチャを摘んで飲用に供していたと言われていますが、記録が残るのは1600年代からで、旧藩の貢ぎ物や物税として用いられています。

西北山間部で昔から行われてきた釜炒り茶の製法は、青柳製と呼ばれ、1600年頃朝鮮から熊本県を経由して伝わったものと言われています。 

煎茶の製法は、宝暦初年(1751年)に都城島津藩家士の池田貞記が山城宇治に赴き、蒸製製茶法を取得して藩内に広めたのが始まりで、宝暦7年(1757年)に当時の桃園天皇にお茶を献上した話は有名です。

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江戸末期の開港以来、茶は生糸と並ぶ我が国の重要な輸出品となり、以降第2次大戦直後までは、茶園面積、生産量、茶種などは、輸出に大きく左右されてきました。茶の栽培は、明治初期から徐々に盛んとなり、栽培面積は明治29年(1986年)には1,452ha、荒茶生産量は明治27年(1984年)に1,037tに達しています。その後輸出向け釜炒り茶の粗製濫造による不評、第1次世界大戦、世界的不況などの影響を受け、昭和初期までの生産量は400〜800tで推移しました。

大正末から昭和初期にかけて、鋏摘みや機械製茶の導入、釜炒り茶から煎茶への転換、茶業試験研究、技術者養成機関の整備充実など、県がさまざまの茶業奨励策を実施したので、漸次発展の機運が高まり、この頃本県茶業の基礎が確立されました。

昭和12年(1937年)の日中戦争勃発以降旧満州向けの磚茶の輸出が急増し、宮崎県は原料となるヤマチャが豊富なことから主要生産地となり、本県からの磚茶輸出量は昭和14年(1939年)には423t(茶生産量の18%)に達しています。

戦時中には茶は制限作物となり新植が禁止され、終戦数年後までは大戦の影響を受け、茶園の荒廃や労力・生産資材の不足により面積・生産量ともに減少しました。

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戦後間もなく、茶は防災作物の一つとして、また北アフリカ・中近東方面への輸出商品として重要性を増してきました(この方面への輸出は数年後に激減した)。

昭和34年(1959年)には、国により紅茶産業化計画が打ち出され、宮崎県も300町歩の造園目標が示されましたが、実際の紅茶生産は三股町、西都市(東米良)、諸塚村、川南町などの一部に止まりました。本県における紅茶の生産量は昭和40年(1965年)がピークで、19.5tが生産されましたが、その後紅茶を取り巻く国際情勢が厳しくなり、昭和48年(1973年)に終焉しました。

昭和40年代には原料用甘藷(澱粉)の生産減に伴う代替え作物として茶が盛んに植えられ、茶園面積・生産量ともに急増し、新しい茶専業農家が多く誕生しました。

その後平成10年(1998年)頃まで、零細茶農家の廃業、畦畝や山茶など兼用茶園の廃園により茶園面積は徐々に減少し、生産量は反収の増加により漸増の傾向にあります。

平成11年頃から、既存茶農家の規模拡大、ドリンク原料用の開園などにより、茶園面積・生産量ともに漸増しています。茶種も従来の煎茶、蒸し製玉緑茶、釜炒り茶に加え、一部でてん茶、紅茶も生産されるようになり、一層バラエティに富んできました。